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「子どもの庭」を考える

ブルーシートを拭く、という余白

報告書:「松山ブンカ・ラボ アーカイブブック(2018-2022)土がさきか 実がさきか」p18-p19,2023

愛媛県のある小学校でアウトリーチ事業の講師を務め、約3時間の造形活動に特化したワークショップを実施した。当日は松山ブンカ・ラボのプログラムオフィサーの松宮さんがアシスタントとして手伝ってくれた。
全校児童を5名程度に分けたグループでの活動を設定した。最初にグループ単位で学内にある面白い形のモノを探し、そのモノの名前を考案する。次にグループ全員でそのモノのための看板を制作し、最後に発表するという内容だった。段階的に進んでいく工程の中でグループでの意思決定の機会が複数回あり、一定のコミュニケーションが不可欠な活動だった。
普段の授業とは違う環境のためか、ほとんどの児童は意欲的に取り組んでくれたが、事あるごとに先生から個別に指導を受ける男子児童がいた。
グループ活動が始まると、彼の消極的な態度を見かねた先生が度々注意し、グループ内の話し合いに参加するように促していた。彼のグループにはリーダーシップのある女子児童がいて、彼女の進行のもと、みんなで見つけたモノの印象や特徴を話し合い、名前を何にするか、どんな看板を制作するかについて、スムーズに決まっていった。
看板の制作が始まっても彼の態度は変わらなかった。彼のグループが選んだ画材は墨汁だった。制作を始めてしばらくすると、彼のグループ付近に敷いていたブルーシートは墨汁だらけになった。墨汁の汚れを見つけた彼は、グループの児童たちが活発に制作するのをよそ目に、ブルーシートについた墨汁を雑巾で拭き始めた。それから制作時間が終わるまでの約50分間、彼は協働作業に一切加わることなく、1人でブルーシートを拭き続けた。
制作の時間が終わり、全グループによる発表会をした。発表するグループがみんなの前に立ち、考えた名前や制作した看板を披露し、その度に笑いや拍手や歓声が上がった。
一番後方に座っていた彼も可笑しそうに笑ったり、手をたたいたりしていた。
ワークショップの帰りの車の中で、松宮さんが彼の話を始めた。松宮さんは彼の気持ちがよく分かると言い、「ブルーシートを拭くというのが彼なりの活動への関わり方だ」と言い、「それが彼の表現なのだ」と言った。そして、先生が彼に「ブルーシートを拭いていないで、みんなと一緒に制作しなさい」と指導しませんようにと願っていたと言った。
松宮さんのこのセリフは、松山ブンカ・ラボの基本的な姿勢を端的に伝えるもので、松山ブンカ・ラボの全ての活動の根幹をなすものかもしれない。
この日に実施したワークショップは、「自分は絵を上手く描いたり、ものを上手につくったりすることができない」というような苦手意識を持ちながら表現する児童たちが、どうしたら自分事として面白く表現活動ができるかについて考えながらつくったプログラムである。試行錯誤を繰り返しながら、ようやくできたプログラムだが、それはあくまで緩やかなゴールに留まるべきもので、詳細にまで設定されるべきものではない。グループ討議や協働作業が好きではなかったり、あるいはその日、誰かと何かを表現する心持ちになれない児童がいるのは極めて自然なことだ。その児童にとって、他者との関わりを促すような表現活動は窮屈に感じられるだろう。多様な児童がいる中で、全校児童を対象に1つの活動をするということは、ある種の暴力性を抱えることになる。
そのようなことを考えながら、表現活動を軸にして子どもと関わる環境をどのようにつくるかを考え実践する場として、「子どもの庭」プロジェクトを〈らぼこらぼ〉で実践することになった。今後、継続的に取り組んでいくこの活動のキックオフイベントとして、日常的に様々な立場で子どもと関わっている方々をゲストに招き、座談会を開催した。
座談会の休憩時間に、ある登壇者が「子どもの環境を設定する時、本当に大切なのはピッチャー能力ではなく、キャッチャー能力だ」と言った。ついつい「何をするか」ばかりを考えてしまいがちだが、大切なのは何もしないという反応も含め、子どもの多様な表現をどのように受け止めるかが大切だという趣旨のことを話された。
座談会の中では、別の登壇者が「子どもたちが何もしなくても、安心してただそこにいることができる場所が大切だ」と言い、そのような場所は意外と少ないのではないだろうかと言った。
これまで、子どもを対象にした活動を考える時、ピッチャーとして「何をするか」に多くの思考を費やしてきた。いかに速い球を投げるか、どんな面白い球を投げるか、そんなことは些細なことなのかもしれない。何かしらの講座やワークショップを計画し、実施する時、実践者は宿命的にピッチャー側にならざるを得ないが、何よりも大切なことは、仮にその実践が当初計画していなかった活動になったとしても支障をきたさない緩やかな余白を設定しておくことや、想定外の出来事を楽しむことができる私たち大人の心の在り様なのではないだろうか。座談会で登壇者の話を聞き、ブルーシートを拭き続けた男子児童の姿を思い浮かべながら、そのようなことを考えた。
よく考えると、キャッチャー能力が試される場面は、子どもを対象にしたワークショップに限ったことではない。大多数の人が同じスピードで1つの方向に進む時、身体的な理由で、精神的な理由で、経済的な理由で、あるいは特別な理由もなく、その歩調を合せることが困難な人がたくさんいることは容易に想像できる。身長も体重も性格も、家庭環境も居住地も、好きなことも嫌いなことも、違うことの方が多い私たちの歩調が合わないのは本来的には自然なことだ。そうであるにも関わらず、歩調を合わせることができない代償は、あまりにも大きな負担として様々なレベルで個人にふりかかる。
小学校のワークショップであれば3時間程度の我慢ですむ話だが、実生活ではそうはいかない。歩調が合わなくても安心していることができる社会的な余白があれば、どんなにいいだろう。自分と他者の歩調が合わないことに面白みを見出すことができればどんなにいいだろう。そして、そのような余白を誰がどのようにデザインし、実装できるのだろう。他者との差異を楽しむマインドをどのように育むことができるのだろう。
5年間の松山ブンカ・ラボの取り組みは、このような問いに対して、広義に捉えた文化芸術や表現活動を軸にしながら、松山市で何ができるかを探り実践しているように私の目には見えた。
ワークショップが終わり、その日の給食当番以外の児童が教室に残り、全員で後片付けをした。給食の時間が迫っていて、みんな慌てて片付けをしていた。彼も片付けをしていた。片付けをせず遊んでいる児童もいた。